初等教育学科
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探究のまど

~ 教育学部の先生たちが 日々の中でふと感じたことを
つぶやくコラムです
(ほぼ月1回更新)

第6回 -季節を感じる心-
2025年 2月
私たちは自然の恵みを頂戴しながら生活を営んできました。その一つに色があります。
色は化学染料が登場するまで、植物の葉や根、樹皮などから色を抽出し糸や布を染めていました。その歴史は古く、日本では縄文時代にはすでにその技術があったようです。染められた色には名前が付けられました。日本伝統色の色名には、唐紅、桃、浅葱、苅安、金茶など多数あります。甕覗(かめのぞき)というほんのり灰色がかった淡い青色があります。名前の由来は藍で染めるときに使用した甕にちょっとだけ(甕を覗いたくらいの時間)浸しただけの色、または甕の中の澄んだ水に映った空の色とも言われています。色名には植物などを由来とするものだけでなく、甕覗のように人の行為や自然の景色などを名前にした色もあるのです。

平安時代の貴族社会では色の組み合わせを季節ごとに楽しみ、その組み合わせに名前を付けていました。「かさね色目」といいます。例えば、下(裏)に紅(赤)、その上(表)に白を重ねると白の下から赤が透けて見えます。「雪の下」、「初雪」と名付けられています。これは赤い梅の花に初雪が積もった様子を表しているそうです。また十二単の袖口には五色と一色(一番下に着る着物の色)の六色が見えます。この組み合わせにも「紅梅の匂」や「青紅葉」など季節を表した名前が付けられています。色選びはその人の個性やセンスを表しました。さぞかし悩んだでしょうね。
季節の変化を感じ取り、季節を色で表し、色を飾ることを楽しむ。そんな文化が日本にはありました。しかし失われた文化ではありません。色を組み合わせることはかつてのように特定の人々だけの楽しみではなく、今では誰でも楽しめるものとなりました。色で季節を感じ、色を楽しむ思いは千年経った今も続いています。 参考文献:八條忠基 2020「有識の色彩図鑑 由来から学ぶ日本の伝統色」淡交社
(初等教育学科 妻藤 純子)
キーワード 図工、図画工作、色彩、文化、十二単
第5回 -身近な一期一会-
2025年 1月
 岡山県には、住んでみたくなる素敵な街がたくさんあります。写真は、とある公園ですが夕暮れに時々散歩をします。掃除が行き届いていて本当に美しいです。 コロナ収束後、ここで外国人訪問者から話しかけられることが増えました。一年を振り返ると、観光旅行中のイスラエル人ご夫婦、イギリス人の女性など。皆さん道に迷われているところ話しかけてこられ、道案内をしながらその国やご家族のことについて教えてくれました。ある時はネパール人のビジネスマンが話しかけてこられました。やはり道を聞かれてたのですが、目的地を目指して公園内を一緒に歩きながら世界中で行ってきたビジネスについて教えていただきました。
 グローバル化という言葉は単に絵に描いた餅ではなく、日本にいながらにして、小さくなった地球を体験できる、そんな時代の日常を私たちは生きています。海外から来たゲストたちとの交流には新鮮な発見があり、その国のニュースに耳を傾けようという気持ちにさせてくれます。国籍を問わず、広い世界での一期一会の出会いをこれからも大切にしていきたいと思います。(中等教育学科 奥西 有理)
キーワード 国際交流、グローバル、異文化

第4回 -岡山理科大学A1号館屋上から見えるもの-
2024年11月
みなさん、ゆっくりと夜空の星を眺める時間を確保できていますか?
 夜に岡山理科大学A1号館の屋上に出ると、美しいロマンチックな岡山の市街地を一望できます。まあ、そっちの方に興味がある方は勝手にそこで愛を語り合って頂くことにして、天体観望の話となると、その眩しいばかりの明るさが少々疎ましく思える時があります。言っておきますが愛を語り合っている方々を疎ましく思っているのではありませんので念のため。
 先日、歳のせいで暗い星が見えなくなってきていることも忘れ、夏の天体観望時に「ここだと肉眼では2等星程度までしか観察できないよねえ!」等と嘯いておりました。すると若者の中の強者が、「ミザ

画像著作権:国立天文台(画像タップで国立天文台ページにジャンプします)

ール(北斗七星の6番目の星である2等星)の横にアルコルが見えますよ。」と軽くいいます。アルコルは有史以来、視力検査に使われていた4等星の星ですので、悔しい気持ちを抑えて「肉眼だと4等星までしか・・・」と小さい声で修正。若者はさらにスマホを取りだし、適当に夜空を撮していきます。画像を見るとまるで全天恒星図・・・スマホのスペックの高さに時代は変わったと確信する私でした。
 みなさん、秋の夜長です。スマホを片手に、身軽な天体観望会を楽しんでみてはいかがでしょう?(初等教育学科 山下 浩之)
キーワード A1号館屋上、スマホ、天文

第3回 -経験値を高める(引き出しを増やす)には-
2024年10月
 よく「経験は大事だ」と言いますよね。確かにそうです。では、どうすれば多くの経験ができるのでしょう?
 すぐ思いつくのは、ボランティア、アルバイト、新しい習い事、外国のような知らない土地を旅する・・など、いくつかあります。でも、ふと考えれば、私たちは何も「経験値を上げる」ことを目的に、日々生きている訳ではないですね。反対に、“経験豊富な人”がどうしてそのような人になったのかを考えると、その理由が分かりそうです。具体的な人名はさておき、歴史上の有名人や、私たちの身近にいる経験豊富な人たちは、当然“経験豊富な人になろう”とは思っていなかったはずです。
 なぜなら“経験豊富”というのは、あとから他者が下す評価、つまり“結果の一面”に過ぎないからです。実際にご本人たちは、目の前にせまりくる様々なことにただ取り組み、解決し、上手く行かないときは悩み、そして切り抜ける、という体験を繰り返すうちに、いわゆる“引き出し”が増えて行ったのでしょうそしてこの“引き出しが増える”という所こそがポイントなのだと思います。
 ところで“引き出し”って何なんでしょうね?本来はタンスや食器棚や机についているアレですが、近年は私たちが個人的に備えた知識・スキルの幅広さを指すようになっています。「私にはその引き出しがないので、〇〇さんにお願いしたい・・」なんて言い方をする人もいます。
 また、同じように色々な経験をしているように見えるのに、“引き出し”が増えている人と増えていない人がいたりします。この違いはどこから来るのでしょう? そしてこの問いに答えるにはどんな“引き出し”が必要でしょうかね?(初等教育学科 松岡 律)
キーワード:教育学部 小学校 岡山 理科大学 社会学 教育学

第2回 -温故知新? 人が人を育てるということ- 2024年9月
 南宋の思想家朱熹(しゅ・き、1130-1200)の言葉に次のようなものがあります。

 私のところ(朱熹の家塾)では、講義の時間は少なく、実践の時間が多い。物事は全て君が自分自身で取り組み、自分自身で考え、自ら己を養っていかなければいけない。書物も君自身が自ら読み、道理も君自身が自ら探究しなければならない。私は単なる道案内人であり、君の成長の見届け人に過ぎない。疑問や問題があれば、君と一緒に考えるだけだ。(『朱子語類』巻13)【※】


 現在の学校教育では生徒自身による主体的な学びが重要とされ、教師はそのファシリテータであることが求められます。ここで朱熹が述べる教師像は、これからの教師に求められるファシリテータとしての教師にほかなりません。  人が人を教え育てる教育という営みは、いつの時代、どんな場所においても行われてきた、人類にとって普遍(かつ不変)の営みです。そこで直面する問題もまた、普遍かつ不変のものといえるでしょう。教育に関する議論は、ともすれば「これまでの教育はよろしくない、これからの教育は……!」という論調になることもありますが、「これから」の教師に求められる力とは、古代から繰り返し唱えられていたことでもあるのです。古典の中には、現代に通ずる問題やそれを解決するヒントがたくさん残されています。 教師とは常に目の前の生きた生徒たちという「最新」の問題に取り組み続ける仕事です。しかし、目の前ばかりを見ていると、つい視野が狭くなってしまうこともあります。一方、大学では腰を据えてじっくりと「教師とは、教育とは」という問題と向き合い、考えることができます。ぜひ、時間や場所を超越した広い視野で、文字通り「長い目」で、教育というものを考えてみましょう。そのとき、皆さんが「古いもの」と思っている古典も、きっと皆さんの明日の助けになってくれるでしょう。

【※】(宋)黎靖徳[編]・王星賢[点校]『朱子語類』(理学叢書、中華書局、1986年)第一冊。原文は次の通り。「某此間、講說時少、踐履時多。事事都用你自去理會、自去體察、自去涵養。書用你自去讀、道理用你自去究索。某只是做得箇引路底人、做得箇證明底人、有疑難處、同商量而已。(僩)」。訳文は三浦國雄『「朱子語類」抄』(講談社学術文庫、2008年)を参考にした。 
(中等教育学科 奥野 新太郎 [漢文学])キーワード:国語免許,教育学部,岡山理科大学

第1回 -電車内の出来事から-
2024年7月
 「彼女が膝から崩れ落ちたんです。白目をむいて、だらりと開いた口からは、泡というか涎のようなものが出ていました。でも、もっと驚いたのは、周りの乗客の対応でした」。
「日刊SPA!」 2024年07月14日に掲載された、綾部まと氏のコラムの一部です。氏が「もっと驚いた周りの乗客の対応」とは、「誰も彼女に声をかけない」「そのままスマホを見続けたり、寝たふりをしたりする」ことです。ここまでではありませんが、私も同じような経験をしたことがあります。混み合うバスの中、足元がおぼつかない様子で立つおばあさんを心配した運転手さんが繰り返し「どなたか席を譲ってください」とアナウンスしました。しかし席を立つ人はいませんでした。私は座席が高く座りにくい一番前の席にいましたが、おばあさんを誘導し席をゆずりました。
 このような「無関心」が最近、社会にはびこっているような気がします。「少子高齢化」「格差社会」「環境問題」等、私たちの社会は多くの問題を抱えています。しかし、これらの問題は、そもそも誰かが声をあげ、みなが共感し、訴えていかなければ「問題」とはなりません。電車で倒れた女子高生のように、誰かが関心を向けなければ「ないもの」となってしまう。たしかに、起こっているはずなのに起こっていないことになる・・・これはとても恐ろしいことではないでしょうか。
 岡山理科大学教育学部の初等社会科内容論では、社会問題を取り上げて討論、対話する授業を行っています。社会のウェルビーイング(Well-being)を実現するためには「自分ごと」として社会問題に関心を持ち、共に解決していく必要がある、と思うからです。
熱心に議論する大学生の姿を毎回見ると、「日本もまだまだ捨てたものではない」とほっとします。
 みなさんも、気になる社会問題を話題に友達や家族と議論してみるのもいいかもしれません。そうすることで今までとは違う景色が見えてくるはずです。(初等教育学科 紙田 路子)
キーワード:社会問題,無関心,初等社会科内容論,ウェルビーイング