初等教育学科
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探究のまど

~ 教育学部の先生たちが 日々の中でふと感じたことを
つぶやくコラムです
(ほぼ月1回更新)

第3回 -経験値を高める(引き出しを増やす)には-
2024年10月
 よく「経験は大事だ」と言いますよね。確かにそうです。では、どうすれば多くの経験ができるのでしょう?
 すぐ思いつくのは、ボランティア、アルバイト、新しい習い事、外国のような知らない土地を旅する・・など、いくつかあります。でも、ふと考えれば、私たちは何も「経験値を上げる」ことを目的に、日々生きている訳ではないですね。反対に、“経験豊富な人”がどうしてそのような人になったのかを考えると、その理由が分かりそうです。具体的な人名はさておき、歴史上の有名人や、私たちの身近にいる経験豊富な人たちは、当然“経験豊富な人になろう”とは思っていなかったはずです。
 なぜなら“経験豊富”というのは、あとから他者が下す評価、つまり“結果の一面”に過ぎないからです。実際にご本人たちは、目の前にせまりくる様々なことにただ取り組み、解決し、上手く行かないときは悩み、そして切り抜ける、という体験を繰り返すうちに、いわゆる“引き出し”が増えて行ったのでしょう。そしてこの“引き出しが増える”という所こそがポイントになるのだと思います。
 ところで“引き出し”って何なんでしょうね?本来はタンスや食器棚や机についているアレですが、近年は私たちが個人的に備えた知識・スキルの幅広さを指すようになっています。「私にはその引き出しがないので、〇〇さんにお願いしたい・・」なんて言い方をする人もいます。
 また、同じように色々な経験をしているように見えるのに、“引き出し”が増えている人と増えていない人がいたりします。この違いはどこから来るのでしょう? そしてこの問いに答えるにはどんな“引き出し”が必要でしょうかね?(初等教育学科 松岡 律)
キーワード:教育学部 小学校 岡山 理科大学 社会学 教育学

第2回 -温故知新? 人が人を育てるということ- 2024年9月
 南宋の思想家朱熹(しゅ・き、1130-1200)の言葉に次のようなものがあります。

 私のところ(朱熹の家塾)では、講義の時間は少なく、実践の時間が多い。物事は全て君が自分自身で取り組み、自分自身で考え、自ら己を養っていかなければいけない。書物も君自身が自ら読み、道理も君自身が自ら探究しなければならない。私は単なる道案内人であり、君の成長の見届け人に過ぎない。疑問や問題があれば、君と一緒に考えるだけだ。(『朱子語類』巻13)【※】


 現在の学校教育では生徒自身による主体的な学びが重要とされ、教師はそのファシリテータであることが求められます。ここで朱熹が述べる教師像は、これからの教師に求められるファシリテータとしての教師にほかなりません。  人が人を教え育てる教育という営みは、いつの時代、どんな場所においても行われてきた、人類にとって普遍(かつ不変)の営みです。そこで直面する問題もまた、普遍かつ不変のものといえるでしょう。教育に関する議論は、ともすれば「これまでの教育はよろしくない、これからの教育は……!」という論調になることもありますが、「これから」の教師に求められる力とは、古代から繰り返し唱えられていたことでもあるのです。古典の中には、現代に通ずる問題やそれを解決するヒントがたくさん残されています。 教師とは常に目の前の生きた生徒たちという「最新」の問題に取り組み続ける仕事です。しかし、目の前ばかりを見ていると、つい視野が狭くなってしまうこともあります。一方、大学では腰を据えてじっくりと「教師とは、教育とは」という問題と向き合い、考えることができます。ぜひ、時間や場所を超越した広い視野で、文字通り「長い目」で、教育というものを考えてみましょう。そのとき、皆さんが「古いもの」と思っている古典も、きっと皆さんの明日の助けになってくれるでしょう。

【※】(宋)黎靖徳[編]・王星賢[点校]『朱子語類』(理学叢書、中華書局、1986年)第一冊。原文は次の通り。「某此間、講說時少、踐履時多。事事都用你自去理會、自去體察、自去涵養。書用你自去讀、道理用你自去究索。某只是做得箇引路底人、做得箇證明底人、有疑難處、同商量而已。(僩)」。訳文は三浦國雄『「朱子語類」抄』(講談社学術文庫、2008年)を参考にした。 
(中等教育学科 奥野 新太郎 [漢文学])キーワード:国語免許,教育学部,岡山理科大学

第1回 -電車内の出来事から-
2024年7月
 「彼女が膝から崩れ落ちたんです。白目をむいて、だらりと開いた口からは、泡というか涎のようなものが出ていました。でも、もっと驚いたのは、周りの乗客の対応でした」。
「日刊SPA!」 2024年07月14日に掲載された、綾部まと氏のコラムの一部です。氏が「もっと驚いた周りの乗客の対応」とは、「誰も彼女に声をかけない」「そのままスマホを見続けたり、寝たふりをしたりする」ことです。ここまでではありませんが、私も同じような経験をしたことがあります。混み合うバスの中、足元がおぼつかない様子で立つおばあさんを心配した運転手さんが繰り返し「どなたか席を譲ってください」とアナウンスしました。しかし席を立つ人はいませんでした。私は座席が高く座りにくい一番前の席にいましたが、おばあさんを誘導し席をゆずりました。
 このような「無関心」が最近、社会にはびこっているような気がします。「少子高齢化」「格差社会」「環境問題」等、私たちの社会は多くの問題を抱えています。しかし、これらの問題は、そもそも誰かが声をあげ、みなが共感し、訴えていかなければ「問題」とはなりません。電車で倒れた女子高生のように、誰かが関心を向けなければ「ないもの」となってしまう。たしかに、起こっているはずなのに起こっていないことになる・・・これはとても恐ろしいことではないでしょうか。
 岡山理科大学教育学部の初等社会科内容論では、社会問題を取り上げて討論、対話する授業を行っています。社会のウェルビーイング(Well-being)を実現するためには「自分ごと」として社会問題に関心を持ち、共に解決していく必要がある、と思うからです。
熱心に議論する大学生の姿を毎回見ると、「日本もまだまだ捨てたものではない」とほっとします。
 みなさんも、気になる社会問題を話題に友達や家族と議論してみるのもいいかもしれません。そうすることで今までとは違う景色が見えてくるはずです。(初等教育学科 紙田 路子)
キーワード:社会問題,無関心,初等社会科内容論,ウェルビーイング